📖 この記事で分かること
・Slackは実はゲーム開発の「失敗」から生まれた副産物だった
・創業者バターフィールドは哲学を学んだ異色の起業家
・「Slack」という名前には「組織に遊びを取り戻す」深い意図がある
・Email KillerからAI統合プラットフォームへと進化した歴史
💡 知っておきたい用語
・Slack(スラック):職場のLINEのようなもの。チームでメッセージをやり取りしたり、ファイルを共有したりできるビジネス向けチャットツール。世界中の多くの企業で使われている。
最終更新日: 2026年1月6日
「今日のミーティング、Slackで共有しておいて」──。
こんな会話、皆さんの職場でも日常的に聞かれるのではないでしょうか。現在、世界中の多くの企業で使われているSlack。ビジネスチャットの代名詞とも言えるこのツールですが、その誕生秘話や開発者の本当の意図を知っている人は、実はあまり多くありません。
実に興味深いのは、Slackが「成功の産物」ではなく、むしろ「失敗の副産物」として生まれたという事実です。しかも、創業者のスチュワート・バターフィールドは、2回も起業に失敗しています。
今回は、そんなSlackの知られざる開発背景と、バターフィールドが本当に実現したかったと考えられる「野心」について、本人のインタビューや公式発表をもとに深く掘り下げていきます。
丸太小屋で育った異色の起業家
Slack創業者のスチュワート・バターフィールドは、IT起業家としては極めて異色の経歴を持っています。
バターフィールドはカナダ・ブリティッシュコロンビア州の小さな漁村で生まれました。東洋経済のインタビューで、彼は「ヒッピーの両親に丸太小屋で育てられた」という異色の生い立ちを明かしています。
その後、彼が選んだ学問は、情報工学でも経営学でもなく、哲学でした。カナダのヴィクトリア大学で哲学を専攻し、さらに英国のケンブリッジ大学で哲学の修士号を取得しています。
「哲学を学んだことで、相手の心の中で何が起こっているのか、どのような行動が報酬を受けているのかについて、深く理解できるようになった」
バターフィールドは2022年のWorld Economic Forumのインタビューでこう語っています。この哲学的思考が、後のSlack開発において重要な役割を果たすことになります。
2回の失敗が生んだ「副産物」
バターフィールドの起業人生は、順風満帆とは言えないものでした。
第一の失敗からFlickrへ
バターフィールドは最初、オンラインゲーム「Game Neverending」の開発を始めました。しかし、このゲームは商業的に失敗。ただ、開発過程で作られた写真共有ツールが、後に「Flickr(フリッカー)」として独立し、報道によると約2,500万ドルで米Yahoo!に買収されました。
これは「失敗からの転身」の成功例でした。でも、バターフィールドはここで満足しませんでした。
第二の失敗:Glitch
その後、バターフィールドは再びゲーム開発に挑戦します。今度は「Tiny Speck」という会社を設立し、「Glitch」というオンラインゲームを開発しました。
しかし、このゲームも期待通りの成果を上げられず、2012年にサービス終了を余儀なくされます。多くの起業家であれば、この二度目の大きな挫折でキャリアに終止符を打っていたかもしれません。
ただ、ここで重要な発見がありました。
社内ツールの可能性
Glitch開発時、バターフィールドのチームは地理的に分散していました。アーティスト、アニメーター、イラストレーター、ソフトウェアエンジニア、ビジネス担当者──約45人の多様な職種が、効率的にコミュニケーションを取る必要がありました。
東洋経済のインタビューで、バターフィールドは当時をこう振り返っています:
「ゲーム開発をしていた当時は、社員が45人ほどになっていた。アーティストやアニメーター、イラストレーター、ソフトウェアエンジニア、ビジネス担当もいた。さまざまな職種の間でコラボレーションをするには、明確さや団結が必要だった」
最初はIRC(インターネット・リレー・チャット)を使っていましたが、複雑な会話には対応できません。そこで、チーム独自のコミュニケーションツールを開発しました。
Glitchが失敗に終わった後、バターフィールドはこの社内ツールに大きな可能性を見出しました。そして2013年、「Slack」として公開することを決断します。
「Slack」に込められた哲学
ここで、実に興味深い話があります。なぜ「Slack」という名前なのか?
公式には、「Searchable Log of All Conversation and Knowledge(すべての会話と知識の検索可能なログ)」の略とされています。でも、バターフィールドにはもっと深い意図がありました。
2017年のFortune誌のインタビューで、彼はこう語っています:
「組織は効率性を高めるために、システムから創造性と探索の余地をすべて取り除いてしまった。『Slack』という言葉は、実は製品管理における技術用語で、システムが失敗を吸収したり、新しい仕事を引き受けたりするための超過能力を意味している。それが本当に重要だと考えていた」
つまり、バターフィールドが目指していたのは、単なる通信ツールではなく、組織に「遊び」「実験」「余裕」を取り戻すことだったと考えられます。
現代の組織は、効率性を追求するあまり、創造性が生まれる「余白」を失っています。Slackは、その「余白」を復権させるためのツールとして設計されたのです。
Email Killerから始まった挑戦
2014年2月、Slackは正式にリリースされました。
初期のキャッチフレーズは「Email Killer(メール殺し)」。当時、職場のコミュニケーションはメールが中心でしたが、以下のような問題がありました:
- 形式的な挨拶や署名が必要
- 返信の返信で会話が複雑化
- 情報が散逸して検索しにくい
- リアルタイム性に欠ける
Slackは、これらの問題を一気に解決しました:
- チャネル方式:プロジェクトやトピックごとに会話を整理
- 検索可能なログ:過去の会話をすぐに見つけられる
- カジュアルな雰囲気:絵文字やGIFで感情表現が可能
- リアルタイム性:即座に返信できる
注目すべき点は、バターフィールドが意図的に「楽しさ」を組み込んだことです。
デザインを担当したMetaLabの創業者、Andrew Wilkinsonは、自身のブログでこう証言しています:
「私たちは、エンタープライズ協業製品ではなく、ビデオゲームの色彩を与えた。Slackは、退屈な企業ツールではなく、賢い冗談を言うロボットの相棒のように振る舞う」
この「遊び心」こそが、Slackの成功の鍵でした。
ボトムアップ採用の戦略
もう一つ重要なのが、Slackの普及戦略です。
従来の企業向けソフトウェアは、IT部門が決定し、トップダウンで導入されるのが一般的でした。でも、Slackは違いました。
個人やチームが自由にダウンロードして使い始め、その便利さが口コミで広がり、最終的に組織全体に浸透していく──この「ボトムアップ」方式を採用しました。
バターフィールド自身がFirst Round Reviewで明かしたところによると、リリース初日に8,000人がサインアップし、2週間後にはその数が15,000人に成長しました。この成長速度は、当時の企業向けSaaS【サース】市場では前代未聞でした。
プラットフォーム化への進化
Slackは、単なるメッセージングツールに留まりませんでした。
API戦略で「統合プラットフォーム」へ
2015年頃から、Slackは積極的にAPI【エーピーアイ】(ソフトウェア同士が情報をやり取りする「窓口」のような仕組み)を開放し、外部サービスとの連携を推進しました。
2019年のS-1提出書類によると、Slackは2,000以上のアプリと統合可能で、現在ではその数はさらに増えています:
- Google DriveやDropboxでのファイル共有
- AsanaやJiraでのプロジェクト管理
- Zoomでのビデオ会議
- Salesforceでの顧客管理
この戦略により、Slackは「職場の中心的なプラットフォーム」へと進化しました。従業員は、複数のツールを行き来することなく、Slack上ですべての作業を完結できるようになったのです。
Microsoft Teamsとの競争
2016年11月2日、Microsoftが「Teams」を発表する直前、Slackは大胆な行動に出ました。
ニューヨーク・タイムズ紙に全面広告として公開レターを掲載し、「Slack is here to stay(Slackはここに留まる)」と宣言したのです。Slack公式ブログに掲載されたこのレターには、こう書かれていました:
「私たちは競争を歓迎します。なぜなら、それは私たちがやっていることが重要だということを意味するからです」
この挑戦的な姿勢は、Slackの自信と市場での地位を示すものでした。
Salesforce買収と「Digital HQ」への転換
2019年6月、Slackは直接上場(Direct Listing)により、公開市場に登場しました。
そして2020年12月、大きな転機が訪れます。Salesforceが総額約277億ドルでSlackを買収すると発表したのです。
Salesforceの公式プレスリリースによると、「この買収により、SlackはすべてのSalesforce顧客のための新しいインターフェースとなり、Salesforce Customer 360の中核となる」とされています。
多くの人は「Slackの失敗」と受け止めましたが、実際には新しいコンセプトへの進化を意味していたと考えられます。Salesforceとの統合により、Slackは「Digital Headquarters(デジタル本社)」という概念を掲げるようになります。
パンデミック期の役割変化
2020年以降、新型コロナウイルスのパンデミックにより、世界中で急速にリモートワークが広がりました。
この時期、Slackの役割は「メール代替ツール」から「会社のデジタル拠点」へと拡大しました。オフィスで失われた非公式なコミュニケーションや、会社文化の醸成にも貢献するようになったのです。
企業の使命と設計思想
Slackの2019年S-1提出書類には、企業としての使命が明確に記されています:
「私たちの開発、設計、パートナーシップ、顧客エンゲージメント、投資は、Slackの唯一無二の使命を実現することに向けられています:人々の仕事の生活をよりシンプルに、より快適に、より生産的にすること」
注目すべきは、単なる「効率化」ではなく、「シンプル」「快適」「生産的」の3つが並列で掲げられていることです。「快適さ」という要素は、多くの企業向けSaaS【サース】に欠けている視点でした。
同じS-1書類には、こうも記されています:
「私たちには、レガシー製品や競合する優先事項はありません。私たちの唯一の焦点は、Slackの使命を実現することです」
この「唯一の焦点」という言葉に、バターフィールドの強い意志が表れています。
現在の進化と課題
現在、Slackは新しいフェーズに入っています。
AI統合への進化
2024年以降、Slackは以下のAI機能を実装しました:
- メッセージ要約:長い会話を自動でまとめる
- 検索強化:自然言語で質問すると関連情報を提示
- 翻訳機能:多言語チームでのコミュニケーション支援
- Workflow Builder:ノーコードで業務を自動化
これらの機能により、Slackは単なる「コミュニケーションツール」から「知識活用プラットフォーム」へと進化しています。
Agentforceとの統合
Salesforceの生成AIエージェント「Agentforce」との統合も進んでいます。これにより、Slackのチャネル内で、AIが自動的に情報を提供したり、タスクを実行したりできるようになりました。
例えば、営業担当者がSlack上で「この顧客の過去の購買履歴は?」と質問すると、AgentforceがSalesforceのCRM【顧客管理システム】から情報を取得して回答する、といった使い方が可能です。
バターフィールドの「本当の野心」
では、バターフィールドが本当に実現したかったことは何だったのでしょうか?
表面的には、「Email Killer」から「Work OS(仕事のオペレーティングシステム)」への進化と言えます。でも、彼のインタビューを深く読み解くと、一貫した野心があると考えられます。
それは:
「現代の組織から奪われた『遊び』『実験』『創造性』を取り戻すこと」
この仮説は、以下の事実によって支持されます:
- 「Slack」という言葉の選択:組織の「遊びの余地」という意味(Fortune誌インタビュー)
- ゲーム開発の背景:「楽しさ」をどう設計するかの知識
- カラフルなデザイン:「ビデオゲームの色彩」(Andrew Wilkinson証言)
- ボトムアップ採用戦略:組織のヒエラルキーを迂回する設計
- 「快適さ」への執拗な強調:効率ではなく「心地よさ」(S-1書類)
World Economic Forumのインタビューで、バターフィールドはこうも語っています:
「組織の知性、創造性、才能、経験のうち、実際に目標達成に向けて効果的に活用されているのは何パーセントでしょうか?」
この問いかけに、彼の本質的な関心が表れています。単なるツールを作るのではなく、組織の潜在能力を最大限に引き出すこと──それがバターフィールドの真の野心だったと言えるでしょう。
Slackの未来:これからの方向性
では、これからSlackはどこへ向かうのでしょうか?
S-1書類とSalesforceの公式発表から、以下の方向性が見えてきます:
「知識活用プラットフォーム」への進化
AI機能の強化により、Slackは単なる「会話の場」から「組織の知が集約され、活用される場」へと進化しつつあります。
例えば:
- 過去の会話から自動的にナレッジベースを構築
- 新入社員が質問すると、過去の類似質問への回答を提示
- プロジェクトの意思決定履歴を自動でまとめて文書化
これは、バターフィールドが「組織全体の知的能力の完全活用」という目標に近づいているとも言えます。
「Digital Headquarters」の深化
Salesforceとの統合により、Slackは以下のような進化が予想されます:
- 顧客データとの統合(営業活動の効率化)
- マーケティングキャンペーンの自動化
- 経営判断を支援するリアルタイムダッシュボード
ただ、この方向性が、バターフィールドが初期に目指した「遊び心のある職場」とどこまで両立できるかは、今後の大きな課題と言えるでしょう。
よくある質問
Q: Slackって結局、何がすごいの?
A: 一番すごいのは、「職場のコミュニケーションをカジュアルにした」ことです。従来のメールは形式的で堅苦しいものでしたが、Slackは絵文字やGIFを使った気軽なやり取りを可能にしました。これにより、部門や役職の垣根を超えた自然なコミュニケーションが生まれました。また、2,000以上のアプリと連携できる拡張性も大きな強みです(S-1書類より)。
Q: バターフィールドはなぜ2回も失敗できたの?
A: 一つは、一度目の失敗(ゲーム開発)から生まれたFlickrが成功し、報道によると約2,500万ドルでYahoo!に買収されたことで資金と信用を得たことが大きいです。また、シリコンバレーの投資文化では、「失敗から学んで次に活かす」起業家は評価されます。バターフィールドは、ゲーム開発の失敗から「チームコミュニケーションの重要性」という気づきを得て、それを次に活かしました。
Q: Slackの「遊び」の思想って、今も生きているの?
A: バターフィールド自身のインタビュー(Fortune誌、World Economic Forum)を見る限り、彼の思想の核心は「組織の創造性と余裕を取り戻す」ことにあります。ただ、Salesforce買収後、企業向けの機能強化が進み、初期の「シンプルで楽しい」という雰囲気は変わりつつある可能性があります。それでも、絵文字やカスタム機能、カジュアルな雰囲気は今も健在です。組織によっては、Slackを使って社内文化を育てたり、非公式なコミュニケーションを促進したりしている例も多く見られます。
まとめ
Slackの物語は、単なる「成功ストーリー」ではありません。
2回の失敗を経験した哲学者気質の起業家が、「組織に遊びを取り戻す」という野心のもとに創り上げたと考えられる、職場革命の歴史です。
バターフィールド自身が語っているように、Slackは「システムの超過能力」──つまり、組織が創造性を発揮するための「余白」を意味しています。
Email Killerとして始まったSlackは、統合プラットフォームを経て、現在はAI統合の「知識活用プラットフォーム」へと進化しています。この進化の過程で、初期の「シンプルさ」や「遊び心」が変容しつつあるのも事実かもしれません。
でも、Slackが職場のコミュニケーションを根本から変えたことは間違いありません。形式的なメールから、カジュアルで自然な会話へ。部門の壁を超えた協力関係へ。そして、リモートワーク時代の「デジタル本社」へ。
あなたが毎日使っているSlackの裏側には、こんな深い思想と歴史があったのです。次回Slackを開くとき、少し違った見方ができるかもしれませんね。
【用語解説】
API(エーピーアイ): Application Programming Interfaceの略。ソフトウェア同士が情報をやり取りするための「窓口」のような仕組み。例えば、SlackとGoogle Driveを連携させる際、APIを通じてファイル情報が共有される。
ボトムアップ採用: 組織のトップ(経営層)ではなく、現場の従業員が自発的にツールを使い始め、その便利さが口コミで広がって組織全体に浸透していく導入方法。Slackはこの戦略で急成長した。
Digital HQ(デジタルヘッドクォーターズ): デジタル版の会社本部という意味。物理的なオフィスの代わりに、Slackのようなオンラインプラットフォームを会社の中心的な活動拠点とする考え方。
SaaS(サース): Software as a Serviceの略。インターネット経由でソフトウェアを提供するビジネスモデル。ユーザーは月額料金を払って利用する。Slackもこの形態を採用している。
CRM: Customer Relationship Managementの略。顧客管理システムのこと。顧客情報や取引履歴を一元管理し、営業活動を効率化するためのツール。
免責事項: 本記事の情報は執筆時点(2026年1月)のものです。Slackの機能やサービス内容は予告なく変更される場合があります。また、バターフィールド氏の「本当の野心」に関する記述は、複数の公式インタビューや発表内容に基づく分析的解釈を含んでいます。
Citations:
[1] Slack Technologies, Inc. S-1 Registration Statement (2019年4月26日)
https://www.sec.gov/Archives/edgar/data/1764925/000162828019004786/slacks-1.htm
[2] Salesforce公式プレスリリース (2020年12月1日)
https://www.salesforce.com/news/press-releases/2020/12/01/salesforce-definitive-agreement-update/
[3] Slack公式ブログ “Dear Microsoft” (2016年11月2日)
https://slack.com/blog/news/dear-microsoft
[4] Fortune Magazine – Stewart Butterfield Interview (2017年6月26日)
https://fortune.com/2017/06/26/slack-work-easier-stewart-butterfield/
[5] 東洋経済オンライン – スチュワート・バターフィールドCEOインタビュー (2019年11月15日)
https://toyokeizai.net/articles/-/314343
[6] World Economic Forum – Stewart Butterfield Interview (2022年8月23日)
https://www.weforum.org/stories/2022/08/stewart-butterfield-slack-work-mindset-productivity-meetings/
[7] First Round Review – “From 0 to $1B: Slack’s Founder Shares Their Epic Launch Strategy”
https://review.firstround.com/from-0-to-1b-slacks-founder-shares-their-epic-launch-strategy
[8] Andrew Wilkinson (MetaLab創業者) – Medium記事 (2015年)
https://awilkinson.medium.com/slack-s-2-8-billion-dollar-secret-sauce-5c5ec7117908
